ゆるされなかった嘘と夢

元メンヘラの自死遺族だけど幸せになりたい!

母の自死から八回目の命日を終えて

母の八回目の命日が終わった。

ごく普通の平日で、強いて言えば仕事がやたら忙しかった。

帰り道、母が好きだったチープ・トリックの曲を少しだけ聴いた。

涙は出なかった。

 

当日はお墓参りにしなかった。

前後の土日も用事があって行けなかった。

最後にお墓参りしたのはいつだったかな……思い出せない。

 

普通の日とおんなじように、あっさり終わってしまった命日。

母はこんな私を見て怒るだろうか?寂しがるだろうか?

きっと何も言わない気がする。

 

◇一人になると……

 

母が亡くなってから、一人になると私は独り言を言ってしまう。

八年経った今でも独り言は健在だ。

一人の空間でぶつぶつ呟くのは我ながら気持ち悪くて恥ずかしくて、ブログにも書いたことがなかったのだけれど、区切りをつけようと思うので書く。

 

区切りというのは、ヘンな独り言を言うこと自体もそうだし、無駄に自意識過剰になるのをやめたいという意味もあるし、そろそろ前を向いて生きていきたいという決心という意味でもある。

 

一番多い独り言は「死にたい」。

次が「お母さん助けて」。

あとは「お母さん愛して」。

 

気づくと口が動いている。

毎朝、会社へ行く前に母の鏡台に座って化粧をしていると、「あー、死にたい。もう死にたい。お母さん助けて、死にたい。お母さん愛して。死にたい」みたいな感じでぶつぶつ連続して呟いてしまう。

特に仕事で嫌なことが待ち受けている日は「死にたい、お母さん死にたい。もう死にたい」と死にたいループに陥る。

 

念のため言っておくが、私は本当に死にたいとは意識の上では思っていない。

ドリエル4箱ODした状態で飛び降りに失敗してから自殺願望がなくなった話」という記事で書いたが、一度自殺しようと試みて失敗してから、自分は本当の意味で死にたい訳ではないのだと頭では理解できている。

それに母のことを考えている訳でもない。

むしろ考えていない日のほうが圧倒的に多い。

 

ただ、一人になると勝手に口が喋り出すのだ。

私はもしかしたら心の底では本当に死んでしまいたいと思っているのかもしれない。

正直自分でもわからない。

わからないが、たぶん、「助けて」「愛して」という部分が本音なんじゃないかなあという気がする。

 

私はいい加減これらの口癖をなくしたい。

毎朝、毎晩、鏡の前で「死にたい」と唱え続けるのは、なんとなく精神衛生上良くない影響がありそうだ。

自分で自分に暗示を掛けてしまっているんじゃないかと怖くなる。

いつか本当に死にたい気持ちが膨れあがって母のようになってしまうんじゃないかと、心のどこかで思う。

そして、それも悪くないんじゃないかとふとした瞬間考えてしまうことがある。

 

そういうのをもうやめたい。

「死にたい」「助けて」「愛して」って言わずに済む人生を送りたい。

 

◇母からの手紙

 

昔、母から手紙をもらったことがある。

私は久しぶりに引き出しの奥を漁った。

結構な汚さだったが、発掘した。

 

小学校二年生のとき作った「私の歴史」的な本。

生まれたときの写真や、入学式のこと、友達からのメッセージなど割と充実した内容の本の中に母からの手紙はあった。

当時、私はこの手紙がすごく嬉しくて何回も読み返した。

母に怒られて何日も口を利いて貰えないときなんかは、こっそりこの手紙を読んでいた。

 

いかにも母好みの便せんは淡いピンクとオレンジの花がらで、淡いグリーンの葉のモチーフがところどころに散りばめられた可愛らしいものだった。

縁は緩く波打っていて、めちゃめちゃ女子!という感じ。

そこに、母の手書きの文字が書き連ねてある。

通信講座のペン習字を受講していた母の字は少し細めの楷書体で、一文字一文字丁寧に書いたのだろうということが見て取れる。

 

小学二年生の私のために、難しい漢字は使わず、平仮名メインで書かれた手紙がこちら。

 

沖はわたしが生むはじめての赤ちゃんだったので、「ちゃんと生めるかな」、「ぶじに生まれるかな」と、ふあんな気もちでいっぱいでした。

 

生まれてからのせいかつも、きっとたいへんだろう としんぱいで、「この赤ちゃん生みたくない」と思ったことさえありました。

 

けれど、生まれてみると、かわいくてかわいくて、生みたくないと思ったことがうそのようでした。

 

沖がしあわせそうにすやすやとねむっているとうれしくて、ごはんをたべてくれるとうれしくて、あるいてくれるとうれしかったです。

沖が元気にそだってくれていることがしあわせでした。

 

この子は、わたしがまもってあげなければと思ったことをおぼえています。

 

これからも、沖が元気でしあわせにすごせることをねがっています。

これからもいっぱいしかると思うけれど、沖のことが大すきだということをわすれないでね。

 

この時期、母は健康で、私も元気に優等生として過ごしており、子犬のAを飼い始めたばかり、まさに絵に描いたような幸せな家庭だった。

手紙にも愛が溢れているなあと思う。

母は私のことをとても大切に想って、大事に育ててくれた。

それを忘れてはならないと思う。

 

あれから二十年近く経って、本当にいろんなことがあった。

母の気持ちがどう変化し、どう苦しんで自死を選んだのかを私は知らない。

そして母の死後、私がどんな気持ちで生きてきたのかを、母は知らない。

 

母は確かに私を愛してくれたけれど、もう母に助けを求めるのは止める。

私が母の心を救えなかったように、死んだ母は今の私を救うことなど出来ないから。

母だって、静かに眠りたいのにしょっちゅう名前を呼ばれたらうるさくて仕方がないだろう。

私は私として、自分の力で生きるしかないのだ。

 

母が亡くなってから八年経って、あんなに愛情いっぱいの手紙を読んだ私の感想はやたら冷静なものだった。

この変化が良いことなのか悪いことなのか不明だが、確かに自分の心が変わってきているように感じる。

まあ、またすぐ心が弱って死にたい死にたいと言ってしまうかもしれないけれど。

 

◇名前の話

 

余談だが、私が産まれる前、母は赤ちゃんにどんな名前をつけるかあれこれ考えていたそうだ。

最終的に、女の子だった場合と男の子だった場合でふたつの名前に絞ったらしい。

 

結局、父の独断でまったく別の名前に命名されたのだけれど。

 

母が考えてくれた、没になった名前はどちらも三文字。

女の子だったら「しずか」。

男の子だったら「なおき」。

 

私のハンドルネーム「静かな沖」は、母に貰った名前を組み合わせたものだ。

 

これからは必要以上に母に縋ることは止めるけれど、せめて母のくれた名前を名乗ることは許してくれたらなと思う。