ゆるされなかった嘘と夢

元メンヘラの自死遺族だけど幸せになりたい!

自分の頭で考えることを放棄して「○○しなければならない」と逃げていた

重要な選択から、日常のちょっとした振る舞い、会話の際に何をどう話すか、何を飲み込んで伝えないようにするか。

自分のそういった諸々の言動の根拠が、頭の中の「○○しなければならない」というイメージに支配され過ぎているかもしれない。

と、最近気づいた。

 

なんだか堅苦しい言い方になってしまったけれど、要するに「いい子じゃなきゃいけない!」という気持ちが強すぎるかも?みたいな話です。

 

◇気づいたこと

 

職場の誰かでも友人でも家族でも何でもいいが、例えば何を食べようかという話になったとき、これは食べたくないから嫌だ!と伝えるのがすごく苦手だ。

出来るだけ相手の顔色を窺って、相手が望むものは何か?と考えて、たぶんこれだろうというものを提案してしまう。

もしそれが相手の気分と違うのであれば相手の希望に従うし、相手が何も案を出さないようならもっと気に入ってくれそうな他の案を考える。

そこに自分の意思や希望は入らない。

 

相手に気に入られなければならない。

自分の我儘を言ってはいけない

常にいい子でいなければならない。

 

無意識にそうやって考えて動いてしまうのだ。

もちろん何もかも相手最優先で過ごしている訳ではないし、時には自分の気持ちを伝えることだってあるけれど、すごーーーくハードルが高く感じる。

特に自分のマイナスな感情を伝えるのがものすごく苦手で、とてつもなく悪いことをしているような居心地の悪さがある。

 

逆にまったく知らない人や、店員さんや勧誘の電話など、赤の他人が相手だとめちゃくちゃ冷たく「興味ないです」「これ以上は結構です」とバッサリ切り捨てることが出来る。

そういうときは自分でもちょっと冷たすぎるのではないかと思うほど酷い対応をしても、罪悪感はないしむしろスッキリした気分になる。

たぶんこの先関わることもないから良く思われる必要もない、よっていい子ちゃんとして振る舞う必要もない、という意識があるのだと思う。

 

知り合いには過剰なくらい顔色を窺ってしまい、他人には物凄く冷たい。

別にそれでも良いと思う。

自分で勝手にやっているだけだし。

 

ただ、時にそれが行き過ぎて、誰にも求められていないのに無駄に我慢しすぎて、もやもやとすることが増えた。

なんで自分だけ?とモヤモヤする。

だからといっていい子ちゃん像を壊すこともできず、また無駄に我慢して更にモヤモヤが募り……という負のループへ陥るのだ。

 

◇被害者意識

 

振り返ると、中学生の頃に自傷行為やら何やらをして、精神科に通い出した頃にいい子のレールを外れたと思っていたが、実際、「○○しなければ!」という意識は今も根強く残っている。

 

受験をするときも、就活をするときも、選ぶべき道はこれだ、という答えがはじめからあった。

ちゃんとした高校を出て、ちゃんとした大学を出て、ちゃんとした会社に入って、ちゃんとした人と結婚して、ちゃんと子どもを生んで、ちゃんと子育てをして……

そこに従えば間違いない。

普通の人生を進んでいける。

何も心配することはない。

だってそれが正しいから。

 

いい子に過ごして、足を踏み外さず、求められる生き方をしなければならない。

人に優しく、礼儀正しく、文句を言わず、理不尽に耐えることこそが美徳。

なんだかそういう意識が自分の中にはあるなあと思う。

 

自分が嫌だな、と感じても、違和感を覚えても、「だってそれが正しいから我慢しなければならない」と思って我慢した。

被害者意識すらあった。

本当は別にやりたいことがあるけど、そうしないといけないから仕方がなく選んでいる。

自分はかわいそうだ。

でも我慢しないと。

いい子でいないと。

そういう気持ちがどこかにあった。

 

でもそれっておかしいよな、と最近やっと気がついた。

 

◇無責任

 

別に誰かに強制された訳ではない。

まあ、両親からの教育だとか環境だとか、そういう影響は受けているだろうが、その中で選択をするのは自分だ。

自分がそれで良いと信じるなら、例えそれがいわゆる「いい子」としての選択でなくても、努力次第、意識次第で他の道を選ぶことはできたはず。

 

小さい頃、よく母に「自分で考えなさい」と言われた。

昔からわからないことがあると私はすぐ質問してしまう子どもだった。

学校では積極的に質問をするいい子だと褒められることもあったけれど、母はそう思わなかったらしい。

一人でも生きられるように、自分で考えなさいとよく言っていた。

 

いつからか、私は言葉で聞くよりも母を観察するようになっていった。

母を見て、今何を思っているか?どうすれば認めて貰えるか?そういうことを念頭に置いて行動するようになった。

「自分で考えなければ」と思った結果、私は自分の頭で考えず、周囲が何を望んでいるかを最優先に行動するようになってしまった。

母の望みとは真逆である。

 

結局、私は自分で自分の人生の責任を取ろうとしていないだけだ。

そもそも、自分が「いい子」だと思っている言動は本当に正しいのか?

「○○しなければならない」と思う根拠は?

本当に間違っていないと言えるのか?

疑ったことはあるか? 真剣に考察したことはあるか?

 

私は自分の頭で考えることを放棄して、正しいと言われるであろう言動を選んでいるだけ。

そこで被害者意識を持つなんておかしな話だ。

 

正しいこと、間違っていること。

嫌だと思うこと、嬉しいと感じること。

言いたいこと、言わないこと、言えること、言えないこと。

したいこと、したくないこと、出来ること、出来ないこと。

 

自分で考えて、責任を持って自分の意思で選択し、自ら行動したことなんてない。

いつも誰かの顔色を窺って、きっとこれなら受け入れられるだろうという選択をしてきただけだった。

 

しかもその結果、母を追い詰めてしまったり、自分の望まない状況が生まれてしまったりしたことだってあったのに、私は反省することもなかった。

自分で考えようともしなかった。

……と、そんなことを最近よく思う。

 

◇自分の頭で考える

 

大学四年生のとき必要な単位数を取得するためだけに取っていた授業があった。

私は文系だったが、専攻する分野とは全然別の理系の授業だった。

 

その先生は割と厳しかった。

ゆるゆるな他の授業と違い、代理で別の学生が出席を出せるような方法は取らず毎回筆記のテストがあった。

私語も禁止。

寝ている学生は追い出された。

 

代わりに授業は面白かった。

文系の学生にもわかりやすいように身近な例を使い、時事的なニュースも取り入れて説明してくれた。

 

その先生が最後の授業で話していたことを今もよく覚えている。

 

文系の皆さんは、自分が今まで話してきた内容など不要だと思うかもしれない。

実際、単位取得の為に受けていた人がほとんどだろう。

それはそれで構わないと思う。

ただ、卒業していく皆さんにひとつだけ話したいことがあるのでこれだけで良いから聞いて欲しい。

 

世の中には曖昧な言葉がたくさん溢れている。

例えば「私たちは何か大切なものをどこかへ忘れてきてしまったのかもしれない」だとか。

だがそんな言葉は実際何の意味もない。

私たち、とはどの範囲か?若者、男性、女性、日本人、それとも地球上の人類?

何か大切なもの、とは何か?

どこかへ、とは実際どの場所を指しているのか?

すべてが曖昧だ。

この言葉は深い意味があるようでいて、何の意味もない。

 

自分が教えてきたことは、世界をどう捉えるかということ。

誰が、何を、どこへ、何故。そしてその結果どうなったか。

ひとつひとつを明確に分析することで、世界を理解しようとする。

それが学問だ。

 

今の日本はいい年をした大人が「知らない間に政府が勝手に税金を上げた」と騒いでいる。

知らない間に?勝手に?

国会の様子はテレビやラジオで中継されている。

知ろうとしなかったのは本人の意思だ。

理解しようとしなかったのは本人の怠慢だ。

どうか、皆さんにはそんな大人にはなってほしくない。

 

世界の物事を知ろうとすること。

曖昧なイメージでなく、知識を元に正確に分析すること。

自分の頭で考えること。

そんな大人になってほしいと思う。

どうか、それだけは覚えていてほしい。

 

細かい部分は違うかもしれないが、大体こういった内容だった。

その話を聞いたとき、私は就職先も決まり残された僅かな学生生活を惜しむように暮らしていて、ただ「ふーん、なるほど」と思った。

当時特にこれといった感想はなかったが、何故だかあの言葉はよく覚えている。

 

今になって先生の言葉が身に沁みるような気がする。