ゆるされなかった嘘と夢

元メンヘラの自死遺族だけど幸せになりたい!

今さら自傷行為と無縁の思春期をやり直すこともできないので

私の左腕には、未だに治らない傷跡がたくさん残っている。

12年前、母が健康だった時期、中学生の私はとにかく死にたくて、毎日腕を切っていた。

今回はそんな私自身の話です。

 

ただ、私はいかなる自傷行為も推奨する意図はないし、逆に自傷行為が絶対的な悪だと考えている訳でもない。

単に過去を振り返って自分語りがしたいだけだ。

 

自傷の片鱗

 

意図的に自傷を始めたのは中学生からだが、それ以前から片鱗はあった。

私は小学生まで優等生タイプで、何でも一位にならなければ意味がないと思っていた。

そしてとても神経質な子どもだった。

布団に入ると不安に駆られ翌日のスケジュールを朝から順に「登校して、一時間目は算数でこの単元をやって宿題はこれで、二時間目は理科の実験だから早めに移動して……」と事細かに三周くらいして、それでも心配でなかなか眠れなかった。

 

この頃から爪を噛み始めた。

常に爪を噛んだり削ったりして、先端の白い部分はないのが普通。むしろ何本かの指先から血が出てしまっているような有り様だった。

両親は爪を噛む癖を止めさせようとしたが、何せ無意識の行動なので全然やめられなかった。

 

小学校五年生のとき、中学受験をするよう両親から薦められた。

友人と離れるのが嫌でかなり抵抗したが「頭のいい中学に入る」という選択がこの上なく魅力的に映ったのも事実だった。

抜毛の癖が始まったのも受験勉強を始めたときだった。

これも爪噛みと同じく無意識。

今見返すと、卒業アルバムの私の顔は眉毛がかなり薄く、睫毛に至っては一本も生えていない。かなり間の抜けた顔だ。

 

◇きっかけは嘔吐

 

何とか中学受験に成功したものの、地元の小学校とは全然違った。

私より頭の良い子も、運動神経が良い子も、リーダーシップがある子もたくさんいた。彼らと自分との間には圧倒的な差があるように感じた。

そして自分が決して優秀ではなく、ごく普通のレベルだと自覚したのだった。

 

将来を思い描いた。

私は何故かそれまで、自分が何か特別な人間で、誰からも羨まれるわくわくするような人生を歩めると信じていた。

ところが高校→大学→就職→結婚→子育て→老後→死と、いわゆる「普通」の人生が待ち受けているだけだとこのとき悟った。

ありきたりで退屈な人生が何十年も続くと思うと苦痛だった。楽しいことなどひとつもないと思い、すべてに対して無気力になった。

 

死にたいと思った。

ご飯を食べるときも、寝る前も、授業中も、友達と話しているときも、私の頭は死にたい気持ちでいっぱいだった。

今になって考えると「そんな些細なことで?」と思わなくもないが、十四歳の私にとっては非常に苦しい時期だった。

たぶん、人はすごく些細なことで絶望して死にたくなったり、幸せを感じて活力が沸いたりするものなんだと思う。

 

どうしても辛くなって、ある日具合が悪い訳でも何でもないのに私はトイレへ駆け込んだ。

そして吐いた。

吐くのは苦しいし、気持ち悪いし、勝手に涙が溢れてくる。吐いた後は胃液のせいで喉がひりひり痛くなる。

でも漠然とした将来への不安に苛まれるより、便器に向かってえずくほうが苦しくないと思った。

あと、吐いていると自分が可哀想な気になれた。周りも心配してくれるし。

 

そこから嘔吐癖が始まった。

食前・食後にかかわらず吐きたいときに吐いた。

口の中に手を突っ込んで、人差し指と中指で舌の奥のほうを強く押すと大体吐ける。

それでも駄目だと歯磨き粉を飲んだり、トイレットペーパーを口に押し込んだりしていた。

嘔吐は自傷行為には入らないのかもしれないが、私にとってはそうだった。

食事は問題なく取っていた。単に吐くときの苦しさで、精神的なストレスを一時忘れたかったのだと思う。

 

リストカットへの憧れ

 

嘔吐を繰り返しても苦しさはなくならなかった。

日に日に死にたいという思いが大きくなる私だったが、ひとつだけ趣味があった。

読書である。

小説のなかでまったく別の人生を体験したり、別世界の物語に浸ったりしている時間だけは、つらい気持ちを忘れられた。

そんなときに出会ったのが「卒業式まで死にません」という本だった。

ググればいくらでも情報が出るので割愛するが、作者の南条あやさんが自身のリストカットやODについて書かれた日記を一部掲載したもので、私にとってはとても刺激的な内容だった。

彼女は1999年向精神薬を大量に服用し18歳で亡くなっており、その人生にも強く惹かれた。

 

初めて切った日のことはよく覚えていない。

恐らく普通に文房具屋にある刃を折るタイプのカッターを使ったと思う。

手首を切る勇気はなかった。

誰かにバレるのが嫌だったので、もっと上の腕の部分、肘の内側の血管が見える辺りから始めた。

場所は駅のトイレ。

電車通学だった私は早めに家を出て、個室に籠ってアムカした。

手首を切るリスカではなく、腕を切るアームカット=アムカが私の日常になっていった。

 

◇私のおかしなアムカ癖

 

はじめの頃は怖かったので一本赤い線がつくくらいにしか切れなかった。

「つらい・苦しい・死にたい」をぶつけるほうがたくさん切れることに気がついた。嘔吐と同じ原理。

切った後はティッシュを当てて、上からセロテープを貼って傷口を覆った。

それでも時々シャツに血がつきこっそり洗う羽目になった。

血が乾いて貼り付いたティッシュを剥がすとき、痛みを感じるのも好都合だった。

 

ちなみに私は痛いのは嫌いだ。

でも毎朝切っているうちに麻痺して、痺れるような感覚に慣れていった。

血がたくさん流れると怖くてスリルがあった。誰にも内緒で危険なことをしていると思うと気分が高揚した。

自分より勉強もスポーツもできる同級生にはできないことをしている、という歪んだ優越感もあった。

 

回数を重ねると、単に細い切り傷を増やすだけではつまらないと感じた。

そこで、一度切った傷口を広げることにした。

同じ場所に何度もカッターを振り下ろして抉るようにすると、いつもよりたくさん血が流れる。

傷口も幅が広く、深いものが増えていって、謎の達成感に満たされた。

 

アムカにバリエーションをつけるために学校から試験管を盗って(いけないことです)、試験管がいっぱいになるまで血を貯めることにハマった時期もあった。

最初は真っ赤だった血が黒っぽく固まっていくのを観察すると楽しかった。

 

また、普通のカッターだけでなく、剃刀や包丁、ノコギリ、クラフトナイフ、果物ナイフ、コンパスの針にホチキスの針、彫刻刀、ピーラー、はさみ、缶の蓋やガラスの破片などなど、とにかく切れそうなものは何でも試してみた。

剃刀と缶の蓋は一気に深くスパッと切れるので血がたくさん出るが、あまり好きではなかった。

どちらかといえばクラフトナイフやカッターなど、少し切りにくいが扱いやすい刃物を使い、何度も傷を抉るほうが夢中になれた気がする。

 

◇通院

 

なんやかんやで自傷をやめたとき、私の左腕はぼろぼろだった。

肘の~前腕の半分くらいにかけて、主に内側、側面や反対側まで傷がある。

綺麗に同じ向きで平行に傷をつけた訳でもなく、大きな傷は血管を断つように、小さな細い傷はもうあらゆる方向につけてしまったのでかなり見映えが悪い。

同じ場所を幾度も切ったせいで、開きっぱなしの大きな傷口が何個もあった。

傷の総数をカウントしようとしたが、五十を超えたあたりで面倒になってやめてしまった。

 

三年ほど形成外科に通った。

かさぶたが出来るとつい剥がしてしまい、なかなか傷は塞がらなかったものの、とりあえずかさぶたの状態からは脱した。そこからが長かった。

 

まず真っ赤な傷跡が無数にある。

そして特に深く切ったものは、山のように盛り上がって一目でおかしい感じになってしまっている。

いっそ全部火傷みたいにしちゃえば火傷って言い訳できるんじゃ?と先生に尋ねたが却下された。

他にも方法がないこともないがまずは完全に腕の元の皮膚を治さなければならない。そして、別の措置をとったとしても大して綺麗にはならない。結局今のまま治るのを待つのが一番いいと。

 

一年ほどすると、細い切り傷は段々白っぽくなり目立たなくなった。

問題は依然として真っ赤なままランダムな凸凹を描く大きな傷跡だった。

名前は忘れたが大きなシール状の薬を貰った。

母は私の腕にキッチンペーパーを当ててその上からボールペンで型を取り、それを元に傷と同じ形にシール状の薬を切って貼ってくれた。それも毎晩。

大きな傷は三年かけて真っ赤から赤へ、濃いピンクへと色を変えていったが凸凹は治らなかった。

異様に大きなみみず腫れが集中してたくさん残っている感じだ。

これ以上できることはないと言われて通院をやめた。

 

◇消えない傷跡

 

初めて腕を切ってから12年経った今、通院の甲斐もあって傷跡からは色が抜けすべて白くなっている。

細い傷跡はほとんど目立たなくなった。

大きな傷跡は当時に比べればかなり凹凸がなくなったものの、不自然な膨らみは残ってしまっていて、火傷という感じもしないし猫に引っかかれて……と誤魔化すには苦しい、おかしな具合になっている。

 

日差しに当てたほうがいいのかと思い何時間か歩いて日焼けしてみたりもしたが、あまり効果はない。

ファンデーションで隠せる感じでもない。

オフィシャルな場ではひたすら半袖を着ないようにするしかないのである。

私はめちゃくちゃ暑がりだけれど真夏も頑なに長袖を着ている。

職場で突っ込まれると、大量の汗を流しながら「冷え性なんで」と笑うことにしている。

明らかにおかしいが、まあ、歪な傷跡を晒してあれこれ言われるよりいいかなと思っている。

 

長いこと、自傷行為をしていたことは私にとって黒歴史だった。

今もそうだ。

母の死について書くよりも、自分のことを書くほうがしんどかった。

なんであんなことをしたんだろう、という後悔があるし、メンヘラを気取って結局努力から逃げていただけじゃないか、と思ってしまう。

 

私は嘔吐も、アムカも、ここには書いていないがODも、全部自分の意思でやっていることだと思っていた。

でも、もしかしたら違うのかもしれない。

どちらかと言えば、無意識に爪を噛んでいたことや、睫毛を抜いてしまっていたのと同じだったんじゃないだろうか。

理由は何であれ、私にとってはつらい目の前の現実から逃げたくて、気持ちを保つ為には吐いたり腕を切ったりするしかなかったんじゃないだろうか。

と、そんな感じで、過去の自分をひたすら恥じて黒歴史にしてしまうんじゃなく、あのときのことを許してあげたいな、と思ったのである。

 

どうせ過去は変わらない。

今も飲み会の後や嫌なことがあった後はつい吐いてしまうし、これからも傷跡だらけの不格好な左腕で生きていかなければならないのだ。

 

ということで、次回はアムカをやめるきっかけとなった、本気で自殺を図り失敗したときのことを書こうと思います。