そもそも母は私のせいで鬱病になり、私のせいで死んだのではないか、という話
母の自死について私は自分が加害者なのではないか、と、ぼんやりした不安を抱えることはあったが、あるときからひとつの可能性として客観的に考えるようになった。
◇母子手帳がない!
きっかけは、大学で受けた健康診断。
最後の問診ではしかの予防接種を受けているか聞かれた私は答えることができなかった。
「母子手帳に記録が残っているはずなので確認してくださいね」と優しく念を押す先生の言葉を信じ、私は帰宅後早速確認してみようとした。
しかし、肝心の母子手帳がない。
以前母子手帳を入れていた引き出しも、保険証や診察券をまとめて保管しているファイルも、お薬手帳などを入れたケースも見た。
仕舞いには家中の引き出しという引き出しを全部ひっくり返して探した。
母子手帳はどこにもなかった。
高校二年生のとき、一度母子手帳を確認する機会があったので少なくともその時点での存在は確認している。
もう一周家のなかを調べて回りながら、私は半ば確信していた。
母が、死ぬ前に母子手帳を処分したのだ。
後から聞けば、父も母子手帳の行方はまったく知らないらしかった。
犯人は母以外に考えられなかった。
あちこち捜索している内に、私はもうひとつの事実に気がついた。
箪笥の一番下の引き出しにあったはずの育児日記が見当たらない。
どこを探してもない。
あの日記には母の率直な感情が綴られていて、昔よく読ませてもらったものだった。
私が一歳のときに父と喧嘩をした母が初めて家出をした話なんかも書いてあったのを未だに覚えている。が、あの手書きの育児日記も忽然と消えている。
母は死ぬ前に母子手帳と、育児日記を処分した。
一人娘である私を産み、育てた記録を捨てたのだ。
何故?
育児日記はまだわかる。
私だって自分の日記を死んだ後に読まれたくなんかない。
しかし母子手帳は?
予防接種の記録や何やらを確認する際使うだろうし、海外留学のときはコピーの提出が必要だと聞いたこともある。
そんな書類を捨てた意図は?
母は純粋に、真っ直ぐに私を愛していてくれたと、根拠もなく信じていた私の気持ちに初めてヒビが入った瞬間だった。
もしかして、お母さんが死んだのは私のせい?
一度そう思うと、母の死がまるで違って見えてきた。
◇最後のSOS
私はずっと、母が出したSOSを父が受け止めなかったせいで、母の心が壊れたのだと思っていた。
SOSを出せる相手は父しかおらず、私が何もできなかったのは仕方のないことだと。
しかし母が首を吊る前、唯一連絡をしてきたのは私だった。
「沖ちゃん、大好きだよ」というあのメールは他でもない、私に向けられた最後のSOSだったのでは?
あのメールを受信し、しかも私は受信した瞬間に内容まで確認したのに無視した。
母がもし、私から連絡が返ってきたら自殺を踏みとどまるつもりだったなら?
あのメールから死亡推定時刻までにはタイムラグがあった。
もし、母が私の連絡を待ち続けていたのだとしたら?
ぞっとした。
◇日記
思い起こせばまだまだ出てくる。
私は受験生時代、鬱病の母と暮らすのがとにかくしんどくてアナログとデジタル二種類の日記をつけていた。
日記と呼べるほどのものでもないが、毎日、誰にも言えないような愚痴を延々と書き連ねていたのだ。
アナログな大学ノートと、今となっては懐かしい「リアタイ」。
当時はまだ全然流行っていた。まあSNSみたいなもんか。
母は鬱病だったし、私は元気だった。
母の心はぼろぼろで労る必要があって、重々理解しているつもりだった。
それでも私は一緒にいるのがしんどかった。
私だって受験生で将来も見えなくて不安でいっぱいで愚痴だって言いたいし四六時中気を遣える訳でもないし機嫌が悪いこともある。そしてそれらを直接母にぶつけることもできない。
だから私はこっそり毒を吐いていた。
読み返すと滅茶苦茶酷いことが書いてある。
母の死の一週間前は特に酷い言葉が書いてあった。
「死にたい死にたいうるせえよ」
「そんなに死にたいならとっとと死ねば?」
「自分で死ぬ勇気もないくせに」
母があれを読んだかどうか、私にはわからない。
もし読んでいたとしたら、母の精神はとてもじゃないが耐えられなかっただろう。
最後まで悩みながら、自殺に踏み切ってもおかしくない。
◇そもそもの話
そもそも母が鬱病になったのは私がきっかけだった。
まだ母が元気で、ごく普通の家族として暮らしていた頃、私は精神的に不安定だった時期がある。
小学生まで典型的な良い子ちゃんだった私だが、中学生になって突如メンヘラ化した。
ふと将来を考えたとき絶望してしまったのだ。
このまま普通に中学を卒業し、普通に高校を卒業し、そこそこの大学を卒業し、そこそこの会社に入り、そこそこの人と結婚し、子供を産み、死んでいく。そんな退屈極まりない人生が待っていると気づき、何もかもが嫌になってしまったのだった。
(その普通とかそこそことかいったものがどれだけ得難いものか、中学生の私にはわからなかった)
当時は爪噛み、抜毛から始まり、嘔吐、喫煙、自傷行為、ODなどにハマっていた。
特に自傷、中でもアムカは毎日行っていて、来る日も来る日も腕を切り続けていた。
自分の血がたくさん流れるのを見ると嬉しかった。
私のメンヘラ期は最後のOD(オーバードース=薬の過剰摂取)で収束した。
あのときは本当に自殺しようと決意をして、身の回りの物も処分して携帯電話の履歴も消して本気で死のうとした。
結果的に死には至らず、幻覚でぐっちゃぐちゃになり意識が途切れる間際残ったのは「死にたくない」という気持ちだった。
この世界にはきっと私が知らない楽しいことも幸せなこともたくさんあるのに何も知らずに死んでいくなんて悔しい、まだ死にたくないと、それこそ死ぬほど強く思った。
結局、私は死にたかったのではなく、ここにいたくない・逃げたい・楽になりたい・誰かに気づいてほしいという気持ちからああいった行動に出たのだと思う。
その後、精神科と形成外科に通うようになった。
一ヶ月だけ学校を休んだ。
母はずっと傍にいてくれて、無理に学校へ行けと言ったりなんであんなことをしたのかと問い詰めたりは一切せず、一緒に隣でのんびり過ごしてくれた。
私は無事に学校へ戻り、中学も卒業できた。
そして母は鬱病になった。
元気だった一人娘が死のうとしたという事実は母にとって青天の霹靂だっただろう。
母は真面目な人だった。
必死に良妻賢母を目指していた。
どうして娘の異変に気づけなかったのかと自分を責めたことだろう。
自分が原因だと思って苦しんだこともあっただろう。
私が自殺しようとした結果、母は鬱病になり、その四年後に母が自殺した。
どの段階でどうすれば良かったのか、私にはわからない。
初めから全部間違っていたのかもしれない。
たったひとつ、しんどくて何もかも嫌になってしまうときも「まだ死にたくない」という気持ちは残っているので、私は最後まで自死を選ばず生きていけたらいいなと思っている。