四人目の家族だった愛犬Aとの思い出
今回は、昔飼っていた犬の話。
父、母、私の三人家族に加わった彼女は、私にとって「ペット」というより四人目の家族だった。
私が小学校二年生のときから飼い始め大学四年まで生きたので、物心ついてから社会人になる直前までを共に過ごしたことになる。
犬、犬と呼ぶのもなんとなく落ち着かないので仮にAと呼ばせて貰います。
◇出会い
ちっちゃい頃、一人っ子の私の夢は犬を飼うことだった。両親にもしょっちゅう犬を飼いたい、犬を飼いたいとせがんでいた。
その熱い要望が通ったのか、単に母が動物好きだったからか、小学二年生の冬休みに家族三人でペットショップへ向かった。
入ってすぐの場所にAはいた。最初にパッと目についた。
ぴょこんと立った耳と小さな体、ぎゃんぎゃん吠える高い声。生後2ヶ月のAはちょっと生意気そうな顔をしていた。
よく後の結婚相手に初対面でびびっと来た、という話を聞くが、まさにその感覚だった。
とりあえずの下見で訪れたはずのペットショップで、私はA以外考えられないと主張した。
すると店員さんがケージから出して抱っこさせてくれた。
自分で言い出した癖にその小さな体を触るのが恐くて、私は一瞬でパスしてしまった。
そこでメロメロになってしまったのは母だった。可愛らしい子犬を一度抱っこした母は夢中になってしまい、結局その日にAを家へ連れて帰ることになった。
ダンボールに入れられたAは、家に着いても落ち着かない様子だった。
母が犬用のケージやトイレを用意している間、Aとふたりきりで過ごした。
まだまだ恐怖心が拭えない私が恐る恐る手を伸ばすとAは暴れた。何度も吠えたり噛みついたりするので私はすっかりびびってしまい、少し離れた場所から彼女がダンボールから飛び出さないように見守るだけに留めた。
今になってみるとAはAでいきなり知らない場所へ連れてこられてめちゃくちゃ怯えていたんだろうなと思う。
Aはいわゆるいい子ではなかった。
めちゃくちゃ吠える。それも可愛い声じゃなくヒステリックな叫び声だ。そしてめちゃくちゃ噛む。毎回血が出るまで噛まれた。トイレもできない。触られるのを物凄く嫌がる。全然懐かない。いわゆる「ペットの犬」として私がイメージしていたわんわん懐いてくる可愛い感じとは正反対。
8歳の私は彼女が怖くて仕方なかった。しつけと称してAが吠えたりトイレを失敗したりする度に頭を殴った。ただでさえ怯えているところにそんなことをされて本当にかわいそうなことをしたなと思う。今だったらべったべたに甘やかすんだけどな……
そんな具合で当初Aと私は犬猿の仲だった。
私に限らず、Aは家族の誰に対しても敵意むき出しでいつも緊張していた。
◇最初に打ち解けたのは
一番に彼女と打ち解けたのは母だった。
父は会社に、私は小学校にいっていたので最も一緒にいる時間が長い、というのももちろんあるが、やはりAが子犬だったこと、母だけはAに恐怖心を抱いていなかったことが大きいと思う。
ある朝、母は父と私を見送った後、ストーブの前で暖をとっていたらしい。
すると遠くのほうからAがじーっと見ている。まだ子犬で毛がふっさふさに生えているでもなく寒かったのだろう。
母はAに向かって手を広げ、ただ待っていたという。睨み合うこと数分、警戒してしばらく固まっていたAはとことこ歩き始め、母の元へやってきた。
あたたかな場所に到着してほっとしたのか、頭を撫でる母の手を嫌がる様子もない。やがて母がAの体を引き寄せ膝に頭を乗せるよう促しても抵抗はなし。そのままAは母の膝で居眠りを始めた。
このとき、母は母性本能がくすぐられまくり、Aが可愛くて可愛くて可愛くて堪らなくなったらしい。後から何度もこの話をされた。
Aも、一度心を許したことで何かが変わったのか、母の膝に乗ったり、甘えたりするようになった。家族が見守る中でもすうすう寝息を立てるようになった。私が撫でても嫌がらなくなった。
相変わらずトイレはできないし吠えるし噛むが、少しだけ距離が縮まった出来事だった。
その後一歳、二歳と年を重ねるごとに、少しずつAは落ち着いていった。あんまりしつけはなっていない子だったが、トイレはできるようになった。噛むことは噛むが、血が出るほどまで噛むことはなくなった。電話が鳴ったり人が訪れたり犬が通ったりすると吠えるのは全然直らなかった。
まだまだ私も小学生のやんちゃ盛りで、Aとたくさん遊ぶようになった。
ボールを投げてキャッチする定番の遊びから、追いかけっこ、かくれんぼ、寝たふりごっこなどなど数え切れないくらい遊んだ。ふたりで公園を駆けずり回り泥だらけになって母を激怒させたこともあった。Aはよく私を噛んだので、私も負けじとAの耳を囓った。
彼女は完全に私を兄弟として見ている節があった。まあ、正直精神年齢でいえば同じようなものだったと思う。
◇大変だったこと
Aは大切な家族で、彼女との暮らしは楽しかった。しかし当然大変だったこともたくさんあった。
一番はトイレ関係。(ここからちょっと汚い話です)
最初のうち昼間は外の犬小屋→夜だけ室内のケージに入れる、という生活を送っていたAだが、脱走事件や体調不良事件などを経て、結局散歩以外は室内で過ごすようになった。
Aはかなりの確率で夜中に粗相した。彼女用のベッド、という名のマットは大体朝起きると大か小で汚れていた。私はほぼ毎朝寝ぼけ眼でそれを手洗いした。
また、外出から帰ってくるとカーペットに粗相をしてしまい、さらにそれを自らの足で踏みつけてしまったAが家中を駆け回った形跡があり、部屋中に点々と茶色い足跡がついているなんてザラだった。帰宅後ぐったりしながら一時間くらい掛けて掃除したこともあった。
そして匂い。
犬特有の体臭に加え、トイレ関係で部屋の中は常に匂っていた。と思う。
実際毎日生活していると麻痺してしまうが、たぶんパッと家に足を踏み入れた人はくっさ~~~と内心顔を顰めていたことだろう。きっと私自身も服や髪についた匂いが残っていたんじゃないかなと思う。
地味に面倒だったのが体毛だ。
掃除機を掛けたそばから毛まみれになる。服や髪にも毛がつく。出掛ける前はいわゆるコロコロで全身を綺麗にする必要がある、が、それでも大体どこかしらに毛がついている。
普通のときでさえそんな有様だから、毛が生え替わる時期なんてとんでもなかった。部屋の中はわたあめ製造器のようで、ちょっと床に指を滑らせるだけで毛の束がふわっふわにまとまった物体が手にまとわりついてくる。息を吸い込めばくしゃみが出る。一日に二、三回掃除する必要があった。
とはいえ、毛が生え替わる度にAの体毛は微妙に毛質や毛色がかわっていき、それを観察するのが楽しみでもあった。ごわごわしたアッシュっぽい毛のときもあれば、ふわふわの黄金色に近い年もあり、赤みを帯びたさらさらの毛が生えたこともあった。
月に一回のシャンプーも大変だった。
Aは水を掛けられるのもドライヤーで乾かされるのも苦手で毎回大暴れする。私がシャンプー担当、乾かす段階に母が途中参加するという形を取っていたが、すぐ水を払おうと体を振ったり逃げ回ったり噛みついたりするので本当にエネルギーが要った。
風呂場では毎月Aと私のバトルが繰り広げられていた。基本仲の良かったAと私の関係が険悪になるのもこの時期だった。
ドライヤーをする段階になると、私がAの体を押さえ込んでいる隙に母が乾かすのだが、特に先ほど書いた毛の生え替わりの時期は毛が飛び回り過ぎてカオスだった。母も私も顔面まで毛が貼り付いて凄いことになっていた。すべての行程を終えると、綺麗になったAを含め全員がぐったりと疲れ果てていた。
◇散歩と四季
Aは犬でありながら犬が苦手だった。
散歩で他の犬とすれ違うと喉が裂けるんじゃないかと思うくらい吠える。これは私と母によるしつけが不十分だったのももちろんあるが、幼少期に体格のがっしりした大型犬に追いかけ回されて噛みつかれたトラウマがずっと消えなかったのが一番の要因だったので、それはちょっと可哀相だった。
一方で、Aは人間が大好きだった。とにかく懐く。
散歩中人とすれ違う度に愛想を振りまき、隙あらば飛びかかろうとする。
犬に慣れている人を敏感にかぎ分けてすり寄っていき、撫でてくれる人にはとりわけデレデレと懐いては相手を骨抜きにしてしまう悪女だった。
これは完全に親バカの心境だが、Aは犬の中でも結構美人だった。くっきりとした大きな目、白と茶色の綺麗な毛並み、上品な顔立ち。
撫でてくれる知らない人が「綺麗なわんちゃんね~」「美人さんね~」と褒めてくれる度に、私まで嬉しくなるのだった。
いつも気ままに歩くAと散歩をしていると四季を感じられた。
春には道端の花を食べようとしたり、舞い落ちる桜の花びらとじゃれたり、ふわふわ飛ぶ蝶に向かって吠えたりした。
だんだん暑くなると虫が増えてくる。Aはミミズが大好きだった。干からびたミミズを見つけると大喜びで駆け寄ってぱくっと食べてしまう。その度に吐き出させるのに苦労した。
雨の日は真っ赤なレインコートを着せて散歩をした。
それでも頭は出ているのでびしょびしょになってしまい、ちょっと歩く度に全身を振って水を飛ばした。横で歩いている私たちにまで水が飛び散り、変える頃にはAも母も私もずぶ濡れになるのが常だった。
夏は熱せられたアスファルトの上を歩くのがしんどいようで、すぐ立ち止まってしまった。公園を通る度に水道にいって水を飲み、ちょっとした水浴び(という名の水遊び)をした。
あまりに暑いときは陽が落ちてから散歩をした。天気が良い日には星が見えた。母と私が星空を見上げていても、Aは勝手に進もうとするので情緒も糞もない感じだった。
Aは秋が一番好きだった気がする。
暑い時期を過ぎ、再び思う存分歩けるようになる時期。そして葉っぱがたくさんある時期。
Aは落ち葉が重なり集まっているところに毎回突進していって、パリパリに乾いた葉っぱの上をわざと歩いていた。パリパリシャリシャリ音がするのが楽しかったんだと思う。いつもより足取りは軽く、飛び跳ねるように歩く後ろ姿が可愛かった。
冬の朝は、灯油の巡回販売車のメロディがいつも遠くから聞こえてきた。あれを聞くと「あーもうそんな時期だねえ」なんて母と言葉を交わしたものだった。
葉っぱと同じ原理で、冬は霜を見つけるとその音を楽しんでいた。基本的に音が鳴るのが好きなのだ。
氷が張ると恐る恐る近寄って、肉球の隙間から生えた毛のせいでつるっつる滑ってすっ転んでいた。
滅多になかったが、ごくたまに雪が積もると大喜びだった。雪の中に体の大部分が埋まった状態で、犬かきをするみたいに一所懸命進んだり、大きくぴょんぴょん跳びはねたりした。当然体中雪まみれになった。
◇老いと病の影
Aの年齢が10歳に近づいてきた辺りで、徐々に老いの影が見え隠れしてきた。
黒いひげや眉毛にあたる毛から色が抜け、白い毛が生えるようになった。
大暴れすることがなくなり遊んでいてもすぐ疲れて眠ってしまうことが増えてきた。
夏でもないのに、散歩中に立ち止まり休憩を取ることが増えてきた。
そんな中、Aの歩き方がおかしいことに母が気づく。
病院に連れて行くと、彼女の体には複数の腫瘍が出来ていることが判明した。
長くなりそうなので今回はここまで。