ゆるされなかった嘘と夢

元メンヘラの自死遺族だけど幸せになりたい!

七回忌を境に母を「帰らぬ人」として穏やかに思い出せるようになった

母は私が大学に入学する直前に首を吊った。

葬式の一週間後、まだ訳もわからないうちに大学生活が始まった。

直後の諸々は以下の記事で書いた通り。

 

自死遺族になったばかりの頃にしんどいなあと感じたこと

 

今回は自死遺族となってからの私がどう過ごし、数年間で気持ちにどんな変化があったのか、ということについて。

簡単に言うと、行動としてはこんな感じ。

 

・とにかく忙しくする

・家にこもって人に会わない

・犬に癒やされる

・趣味に没頭する

・環境を変える(というか自然に変わった)

 

基本的に現実逃避によって構成されている。

 

◇がむしゃらに過ごした一年目

 

最初の一年はとにかく必死だった。

慣れない家事、犬の世話、始まったばかりの大学生活。ひたすら忙しく過ごした。

大学の授業がない日はバイトのシフトを入れた。幸いなのか何なのか、選んだ新しいバイト先は常に人手不足で、私はシフトをがんがん入れて貰った。夏休みは自動車免許の取得のため毎日教習所に通った。

無意識に休みの日を作らないようにしていた。

貯金が貯まる一方で、友達と遊ぶこともなく、サークルや部活に入る訳でもなく、ただ目の前のことをこなした。

 

それでも、電車に乗ったときや一人で家にいるとき、何なら大学の講義を受けている最中も常に母のことが頭を占めていた。

骨壺の前で謝り続けた日もあった。

電車でいきなり泣き始めることもよくあった。

講義中に苦しくなって寝たふりをするなんてしょっちゅうだった。

「お母さん」「親」「死ぬ」「葬式」「自殺」「首吊り」「鬱病」といったワードを目にしたり、耳にしたりするとドキドキした。悪い意味で。

母のことばかり考えている一方で、新しくできた友人にも、古くからの友人にも、バイト先の人にも、父にも親戚にもご近所さんにも母のことを話すことはできなかった。

 

あるとき、駅前で募金を呼びかける若い集団に出くわした。

私と同じ大学生くらいの子もいれば制服を着た高校生くらいの子もいた。

近づくと「自殺遺児のために!」と聞こえた。

彼らは、親を自殺で亡くした子どもたちのために声を張り上げて募金を呼びかけていた。

あの子たちは自殺遺児本人なんだろうか?だとしたら何故公衆の面前で、大声でそんなことが言えるんだろう?

私は信じられない思いだった。どんどん気分が悪くなった。

出来るだけ彼らを見ないようにして早歩きで立ち去った。

 

忙しい毎日を送り、段々と平静を保つのが上手くなっていった。

しかし、二月になり三月を迎え、命日のある四月が近づくにつれて、体がだるくなっていった。いつも気分が落ち込み辛くて辛くて仕方がなかった。過食気味になり、ぶくぶくと太っていった。

東日本大震災から一年の節目で、世間ではひどい被害を受けた地域のニュースや避難を続ける方々の声、原子力発電所のあれこれが論じられていたが、私は母のことで頭がいっぱいだった。ごく身近なことしか考えられなかった。

桜の花を見ると涙が出た。

 

一周忌に親戚が集まる中、納骨を終えた。

とうとう母の骨すらも家からなくなってしまったと思った。

 

◇犬との生活

 

最初は良かったものの、徐々に疲労が蓄積し忙しく過ごす毎日に限界が訪れた。

人と話したくない!接客するのが辛い!家から出るのも無理!という状態になり、ごたごたした後一年ほどでバイトを辞めた。

そこからは大学の講義がある日以外は家にこもって過ごした。

 

長期休暇は家にしかいなかった。

休み明けに大学へ行くと周りが旅行にいった話や短期留学した話、ボランティア活動を始めた話、バイトに明け暮れた話や部活動・サークル活動に打ち込んだ話をしている中、私は話すことがなくて困った。

 

「ずっと家にいた」

「バイトは?遊んだりもしなかったの?」

「全然」

「え……それって何が楽しいの?」

 

何が楽しいと聞かれても困る。

確かに今になってみると、あれだけ長い、何もすることがない期間を家に居続けたのはちょっと勿体なかったなと思わなくもないが、外に出る気力も誰かとコミュニケーションをとる精神力も当時の私には残っていなかったのだった。

 

外部とコミュニケーションをとらず、誰かと会いに出掛けることもなく、親しい人にも母のことを話せなかった私の傍に唯一寄り添ってくれたのはペットの犬だった。

犬の隣で泣いた日は数え切れないほどある。

苦しくて仕方がないときはそのあったかい体を抱き締めて時間が過ぎるのを待った。

犬にだけは、私は素直な気持ちを吐き出すことができた。

きっと突然母がいなくなったことを犬も疑問に感じていただろうが、余計な配慮もなくそれまで通り無邪気に暮らす姿が私にとっては救いになった。

 

犬との散歩が大学以外でほぼ唯一の外出だった。

人に会うのが嫌だったので、いつも暗くなってから出掛けた。

毎日同じくらいの時間に出掛けることで、外の世界の空気や季節感を感じられた。

変わらない町並みを歩いていると、時々、母がいないのが信じられなくなる瞬間がある。振り返ったらそこに母が立っていそうな感覚。

犬を飼い始めたのは私が8歳のときで、その頃からずっと散歩をしてきた。一人で散歩することもあったが、母と私と犬で歩くことが多かった。

同じ道をぼんやり歩いていると、つい昔の感覚が蘇り感傷に浸ってしまうのだった。

そんなときも、犬は勝手にあっちこっちの匂いを嗅ぎたがったりいきなり走り出したりして、私を現実に引き戻してくれた。

 

◇環境の変化

 

母の死から二~三年経つと、段々趣味に没頭するようになっていった。

詳細を書くと長くなるので割愛するが、私はこの頃からオタクに目覚めた。

作品に夢中になっている間は、自宅にいながら違う場所にいられるようで、自分のことを考えずに済んだ。

反面、ふと現実に戻ったときに物凄く虚しくなるのもまた事実だったが。

 

あとは音楽が好きだったので、失恋ソングや別れの曲に自分の気持ちを重ねて聴いたり、底抜けに明るい曲を聴いて気分を上げたりした。

徐々に音楽を聴くだけでなく、家の中で出来る範囲でファンとして特定のアーティストを追いかけることも始めた。曲を全曲網羅する、ライブ動画を延々と見続ける、アーティストのインタビュー記事読み込む、ラジオを聞く……などなど。

そうしていると時間が過ぎるのがあっという間で一日が短く感じられた。 

 

やがて就職活動が始まり、それまでのように夜中の四時に寝て昼過ぎに起き家にこもる生活を続ける訳にもいかなくなった。

もうこれは自分の意識とかでなく、せざるを得ないからというだけの理由で、強制的に外出するようになった。昼夜逆転の生活もやめた。

就職活動はまた別の苦しみが続き私としては非常に辛い時期だったが、私の意識は外へ向くようになり、家にこもり続けていたときよりも精神状態は良好になっていったように思う。

 

私は再び外に出掛けるようになった。

趣味の延長で繋がったネット上の知り合いと実際に会う機会も得た。

好きなアーティストのライブやイベントに足を運び、初対面の相手と親しくなることもあった。

趣味の場では、私はハンドルネームで呼ばれるただの大学生でしかない。わざわざ家庭環境の話をする訳でもない。

ただ好きなことを共有して、楽しいことだけお喋りする。気が楽だった。

いろいろと趣味の関係でお金が必要になり、短期アルバイトをいくつかした。

少しずつ私の世界は広がっていって、母のことをまったく思い出さない日も増えていった。わざと考えないようにしていた面もあったかもしれない。

 

やがて内定を貰い、無事に大学の卒業も決まった。

就職してからは会社員としての暮らしが始まり、大学時代の自堕落な生活からは考えられないほど、世間一般でいう「普通」に過ごすようになった。

入社したての頃は「母は亡くなっていて……」の会話を何度もしなければならなかったが、そんな機会も徐々に減っていった。

忙しない毎日に追われ、昔のことを意図的に思い出そうとすることもなく、薄情だが母の存在は私のなかでどんどん遠いものになっていった。

 

◇そして七回忌

 

父は母の死から毎月欠かさずお墓参りをしていた。何なら今も毎月行っている。

その度にごしごし墓石を擦って洗うので、かなり早い段階で文字が欠けてしまっていた。

一方、私は社会人になってからは命日やお盆、お彼岸などの節目以外は墓を訪れることもなくなっていた。

 

上手く言葉にできないのだが、母の死の直後しばらくは、「ずっと傍にいたお母さんがいなくなってしまった」と考えていた。

傍にいてくれないのは何故?

どうすれば良かった?

なんで戻ってきてくれないの?

ずっと傍にいた母の不在やそれによって生まれる感情、自死遺族として生きなければならない自分の境遇を嘆くばかりだった。

 

働き出してから三年目の春、七回忌の法要は父と二人きりで行った。

墓の前に立ったとき、自分の内面が確実に変わっていることに気がついた。

母の死の直後に感じていたような苦しさ、悲しさ、やりきれなさは私の中から消えていた。いや、完全に消えた訳ではないが、あの頃の強烈な感情は薄れて穏やかなものへと変化していた。

 

私の中で、母はもう決して戻らない存在だと冷静に考えられるようになっていた。

お母さんと心の中で呼びかけても心が動揺することはない。

あの頃はああだったな、こうだったな、と懐かしんで笑うこともできる。

 

七回忌の翌日に書いた文が残っていた。

 

昨日は母の七回忌でした。

風がとても強くて桜がたくさん舞って

太陽のひかりと散りゆく花びらと

薄くかすんだ青い空がなんだかとても印象的な

気持ちの良い春の日でした。

私と父の二人だけで、女性の住職さんでした。

 

お経を聞きながら、

母はかみさまになったのだ、と思いました。

私にとってのかみさま。

わたしの心の奥底で揺るがず残る記憶と

ずっと自分をみてくれている存在なのだという確信と

そんなかみさまのような何かに、母はなりました。

 

今はまだこの気持ちをうまく表現できないけれど

なんだかとても心が穏やかになりました。

いつかこの日の思い出を

書き残して誰かに読んでもらいたいと思いました。

 

母が自殺したばかりの頃は、こんな風に穏やかな心持ちで母のことを思い出すことができる日がくるとは思わなかった。

私は別に母の死を乗り越えた、という訳ではないと思う。

素晴らしい何かがあった訳ではなく、日常をやり過ごして、現実逃避しまくって、環境の変化に身を任せ、時間が経つのを待っただけである。

 

ただ、逆に母のことを思い出さないようにすることで心を保っていた部分もある。

心底引きずりまくりながら、もう大丈夫だと無理矢理自分を騙すことで普通の暮らしを送ってこられたようにも思う。

母の死から8年経とうとする今、こうしてブログを書くことで、ようやく過去に向き合っているのかもしれない。