ゆるされなかった嘘と夢

元メンヘラの自死遺族だけど幸せになりたい!

久しぶりに紙の本を買った、自分の気持ちを大事にしようと思った

2018年は自分の中で変化のあった年だった。

仕事、プライベート、将来、家族との関わり方、他人との関わり方……などなど、このままで良いのか変える努力をすべきかわからなくなってしまった。

その結果、まずは整理し切れていない思い出や気持ちをアウトプットするのが先では?と思い至りこのブログを始めた。

おかげさまで、不十分なところも多々あるが、多少心の中がすっきりとしたように思う。

 

しかし、同時に「なぜあの頃あんなに息苦しかったのか?」「今感じているしんどさはどうすればなくなるのか?」「どうやったら幸せになれるのか?」「いやそもそも私にとっての幸せって何?」「これからどう生きていけばいいの?」と新たな疑問が次々出てきてしまったのも事実だ。

正解がある訳でもないし、この先もずっと考えないといけないことなんだろう。

ただ、年末に読んだ本が自分にとってはとても新鮮で、そういった問いのヒントになりそうだったので、今回はその本を読んで思ったことについて。

 

◇気づくこと

 

『自分に気づく心理学 幸せになれる人・なれない人』加藤諦三著(PHP文庫)

1987年に出版された本の文庫版。

 

何か自分がちょうど読みたいような本がないかなと、新書や雑学系の本が置いてあるコーナーをうろうろしていたらパッと目についた本。

ぱらぱら目次を見ていると、気になる言葉がたくさん書いてあったので買ってみた。

 

・いつも他人から責められているような気がするのはなぜか

・心の不安はどこからくるのか

・自分に自信が持てない人は自然な生き方ができない

・積極的な生の感情を育てるために

引用元:PHP文庫 加藤諦三『自分に気づく心理学 幸せになれる人・なれない人』

 

新鮮だったのは、行動よりもまず気づきが必要という部分だ。

変わるためには何かしなければならない、幸せになりたいなら努力しなければならない、と特に根拠もなく考えていた。

 

書評を書けるほど読み込めてはいないが、この本にはまず自分の本当の気持ちを知り自分にやさしくすることが何よりも大事、というような内容が書かれていた。

そして、自分が考える理想や幸せ像自体が、もしかしたら親や周囲の影響を受けて歪んでいる可能性もあるのでは?と。

心の底にある本当の気持ちに気づくことで見方が変わってくるのかなと思った。

 

例えば私は、どうして自分はアムカやODに走ったんだろう?と自分でしておきながら長いこと疑問だった。

 

ちっちゃい頃、両親は私に優等生になることを望んでいると思っていた(し、たぶん本当に望んでいたと思う)。

私は勉強やスポーツに励み、ご近所さんに会えば元気な声で礼儀正しく挨拶をして、良い子道を極めようと一所懸命になっていた。

そうすることで褒められたい、認められたい、愛されたいという気持ちが強かった。

実際には、あるときから現実が理想に程遠いことを目の当たりにして努力すらしなくなってしまったのだが。

 

たぶん、心底「優等生じゃなくても愛されたい!」みたいな願望があったんだと思う。

本当は頑張りたくない、つらい、頑張ってない私でも認めて欲しい、そのままでいいよって言われたい……声に出せなかった声に気づいて欲しくて腕を切ったりODしたりしたという面もありそうだ。

 

あとがきを読んでさらに考えさせられた。

 

救ってくれ!と叫んでいる者は、実は心の底の底では満たしてくれ!と叫んでいるのである。救ってくれ!というのはあくまでも意識のレベルでの叫びである。

救ってくれ!と叫んでいる者は、どう生きて良いか分からないのである。「これ」で生きていけるという何かを求めているのである。心の満たされた者にとっては、「これ」で生きていけるというような「これ」を必要とはしない。

この本を読んで、自分の何が満たされていなかったのかということに気づいてくれればそれで十分である。

出典:PHP文庫 加藤諦三『自分に気づく心理学 幸せになれる人・なれない人』

 

もしかして、私が私に無理させてた?

私が本当に求めていることって何?

 

なんとなーく、自分に欠けている何か・欲している何かがあるんだなーということが自覚できたが、答えはまだよくわかっていない。

 

◇実際の感情

 

母についても思うところが多かった。

 

甘えの欲求の抑圧をしている者は、自分でも自分が何を望んでいるかわからなくなることがよくある。

例えば自分は将来何になりたいか、などということについては、自分が心の底では望んでいなくても望んでいると錯覚することが多い。

出典:PHP文庫 加藤諦三『自分に気づく心理学 幸せになれる人・なれない人』

 

母は完璧な良妻賢母を目指していた。

家事は手抜きをしないこと。

仕事に理解のある上品な妻であること。

子どもに寄り添う優しい母であること。

そうした母親像を持っていた。

友達と遊びにいったり、誰かとランチしにいったりする姿をほとんど見たことがない。

でも、それは本当に彼女が望む姿だったのか?

 

今になってみると、良妻賢母であることを目指しながら、母の心は限界を超えていたと感じる。

独身時代の母は海外旅行が好きな派遣社員だった。

ちょうどバブルの頃で、一年働いてお金が貯まると突然一人で半年くらい海外へ行って帰って来なくなるという生活をしていたらしい。

ヨーロッパを横断したり、アメリカに留学したり、自由気ままに旅をするのが好きだったという。

そんな母が、ずっと家にこもり家事に勤しんで、閉鎖された人間関係のみのなかで暮らし、さらに自分に対して一切の妥協も許さないというのは、そりゃあ息苦しくて当然だろう。

 

母が良妻賢母を目指したのは何故だろう。

世間体のためか?母自身が育った環境のせいか?父の亭主関白のせいか?それとも優等生になるはずだった私がいきなり自殺しようとしたからか?

本当のところはわからないし、母自身もわかっていなかったんじゃないかと思う。

 

深刻な劣等感を持った神経症気味の人にとって、実際の感情に接するのに障害となるのは罪悪感である。

隠された依存性、満たされない愛情欲求、心の底での自分への失望、それらのことがその人をかりたてるのである。

出典:PHP文庫 加藤諦三『自分に気づく心理学 幸せになれる人・なれない人』

 

鬱病になってから、母はいつも申し訳なさそうだった。

私や父のささいな言動ひとつひとつに傷つき、その度に自分を責めていた。

あんなにぼろぼろになって、仕事もやめて家に引きこもって過ごし、薬を大量に飲んで意識が朦朧としていてもなお、家事を全うしようとしていた。

心が安まる瞬間などないように見えた。

 

私はただただ必要以上に母を刺激しないことだけを気をつけて、母が本当は何を望んでいるかなんて考えたこともなかった。

鬱病なのに頑なに家事をしようとする母を、したいと思うなら勝手にさせておこうと放っておいた。

一番長く傍で過ごした自分は誰よりも母のことをわかっていると思っていたけれど、実際の私は母の本当の感情を知ろうせず、むしろ心は誰よりも離れていたのかもしれない。

 

電子書籍と紙の本

 

余談だが、今回久しぶりに紙の本を買った。

私は社会人になってからはほぼ電子書籍派になってしまった。

買いに行く時間がなくても欲しい本がすぐ手に入る、場所を選ばず読むことができる、買っても場所を取らない。圧倒的にメリットが多い。

 

ただ、元々は単純に好みとして紙の本のほうが好きだ。

夏休みに一人で朝から夕方までずーっと図書館にいても苦にならないタイプの子どもだった。

並んだ本を眺めて時々気になった本を手に取り眺める、を繰り返しているだけでめちゃくちゃテンションが上がった。

 

そういうことを思い出して、年末、久々に訪れた本屋はやっぱり楽しかった。

予想外の本に出会えるというのが一番大きいと思う。

電子書籍だと関連情報を教えてくれることもあるが、基本は自分で狙いをつけて検索し探す。思いがけない出会いは少ない。

どっちが上!みたいな話をしたい訳じゃないが、時々はまた本屋にいこうと思った。

 

まあそんなことを言いつつ、『自分に気づく心理学 幸せになれる人・なれない人』を読み終えた後、自分に残るものがかなり多くて感動したので、加藤諦三先生の本を数冊、電子書籍で購入してしまったのだった。

 

◇幸せの話

 

このブログのテーマとして「元メンヘラの自死遺族だけど幸せになりたい!」という言葉を掲げている。

私はとにかく苦しくて、どうしたらいいかわからなくて、でもここを抜けたらもっと幸せな生活が待ち受けているんじゃないかと思って「幸せになりたい」と書いた。

が、最近自分にとっての幸せな人生が何なのかわからなくなってきた。

 

結婚して子どもを産むことだろうか。

バリバリ稼いでキャリアウーマンになることだろうか。

仕事はそこそこに趣味を極めることだろうか。

 

なんだか全部違う気がする。

でもこのまま進むのも、なんとなく違う気がする。

 

では自分は何をしているときに幸せを感じるかな、と思い返すと、結構しょうもないことばかりが思い浮かぶ。

 

例えば、年末に本を買った帰り道。

ビニール袋に入った本をぶら下げて、好きな音楽を聴きながら、家まで歩いて帰った。

冬らしい冷たい空気が、てくてく歩いているとちょうどいい温度で気持ち良かった。

母に買ってもらったコートを着て、昔飛び降りて死のうとしたビルの横を通り過ぎ、犬の散歩をした道を歩いた。

開けた通りに出ると空がすごく綺麗だった。

少し大きめの雲がたくさん浮かんでいて、その隙間から金色の光が射す様は圧巻だった。

知らないおばあさんがスマホで何枚も写真を撮っていた。

 

空を眺めて、好きな音楽を聴いて、心地良い空気の中を歩く。

家に帰ったら自分で作ったごはんを食べて、自分で買った本を読む。

そう思うと、幸せだなあと感じたのだった。

私の感じる幸せはちっぽけだ。

この先もこういう瞬間がたくさんあったらいいんだろうなとぼんやり思った。

 

だからといって、じゃあ、具体的にどうすればいいかという答えは出ない。

相変わらず母は生き返らないし、家に帰れば父と二人きりで生活しなければならないし、正月休みが終われば誰がやっても同じルーチンワークを延々とする毎日に戻るだけで、将来への不安が消える訳でもない。

 結局、結論は出なかった。

 

2019年はどんな年になるかわからないが、とりあえず、自分の気持ちを大事にしようと思う。