中学・高校・大学全部受験したものの全部崖っぷちだったなという話
「受験勉強」と聞くと未だに何とも言えない嫌な気分になる。
私は中学受験・高校受験・大学受験と全部筆記試験で通ってきたのだが、一度として満足のいく受験期を過ごすことはできなかった。
今回は個人的な受験の思い出です。
◇中学受験
小学校のとき、私は勉強が得意だった。
というか学校のテストだけが得意だった。
基本授業でやったことしか出題されないし、とにかく言われたことだけ必死にやっていれば自然とできた。当時は優等生だと褒められたくて仕方がなかったというのもある。
五年生で塾に入った。
まだ中学受験をすると決めた訳でもなかったが、今思うと両親のなかではそういう算段がついていたんだろう。
思い返せば、集団授業形式の塾に入ったのは小学生のときだけだった。
授業は楽しかった。
受験!受験!という雰囲気はなく、どちらかというと中学に入ったときにリードできるよう先取りして楽しく勉強するというような塾だった。
アルファベットを覚えたり、ちょっと難しめのかけ算割り算に挑戦したり。
一番発言した人はお菓子が貰える!とか、テストで80点以上取れたらおにぎりが貰える!とか、そういうゲーム的な要素が多くあった。
しばらくして私は中学受験を勧められ、まんまと挑戦することになる。
小学校の授業、塾の授業に加えて、私は家でも受験する学校の過去問集を解くようになった。
勉強していると父も母も満足そうにしていたので、単純な私はあまり苦痛に感じず言われるがまま受験勉強に没頭した……
と、言いたいところだが。
このとき初めて気がついた。
私は受験勉強がとてつもなく苦手だった。
まず、学校や塾のテストとは違って単元ごとに範囲が決まっている訳ではないので、大体の傾向があるとはいっても基本はすべてを網羅しなければならない。
そして情けないことに、私は誰かに競争する、あるいは誰かに評価される環境でないと全然勉強に身が入らなかった。
まあ受験も競争だし、最終的に合否という評価が出るものであるが、スパンが違う。
一年以上先のロクに現実味もない目標に向かい、誰に評価される訳でもなく、ただただ手を動かすことは苦痛だった。
私にとって勉強とは短期的に努力し、競争して誰かに勝つ、そして周囲に評価される為の道具でしかなかったのだろう。
優等生だったはずの私だが、このときからサボり癖がついた。
相変わらず学校の勉強も塾の授業も一生懸命取り組んだけれど、家のなか一人でする受験勉強だけは駄目だった。
母はいつも受験勉強に付き合ってくれた。
「今日は□年の問題を解こう!」と決めてくれて、私はその指示に従い問題を解き、自分で採点をするのが常だった。で、点数を報告する。
私はカンニングして適当にそれなりの点数になるように解答し採点するようになっていた。もうまったく意味がない。時間の無駄である。
当然そんなんで合格する訳もなく、結果は補欠合格。
結果を学校まで見に行ってくれたのは母だった。
合格発表の日はとても天気が良くて、快晴のときにしか見えない富士山が電車の窓から見えたという。
青空の下くっきりと姿を現した富士山に、母は合格を確信し、合格者のなかに私の番号がないことに呆然として固まってしまったらしい。
補欠から繰り上げ合格になるときには何日か以内に電話が来るシステムだったと思う。
私以上にそわそわして、電話の前を行ったり来たりする母の姿を今もよく覚えている。あの頃の母は珍しく髪を茶色く染めてゆるくパーマを掛けていた。
富士山のお告げか何かを信じた母は希望を捨てきれなかったんだろう。
私としては、むしろ補欠に入っただけでも奇跡だという感覚だった。
なんだかんだいって、自尊心を守る為だけにしていた学校と塾のお勉強がちゃんと活きていたのかもしれない。
結果、非常に運が良いことに、程なくして繰り上げ合格の電話が鳴った。
大喜びする両親の姿に、あまり現実感のないまま、私は志望校に合格することができたのだった。
◇高校受験
中学受験で若干躓きつつも依然として優等生のつもりだった私は、どうにか入った中学で現実に打ちのめされた。
以前、私がメンヘラだった頃というカテゴリーで書いたように、その後の私は自傷行為にハマり勉強もろくにしていなかった。
自傷をやめて精神科に通い始めた頃、自殺に失敗して学校を休み陰であれこれ言われていたのもあり、遠い場所にある高校を受験することにした。私のことを知らない人たちのところにいきたいと思った。
高校受験に向けて今度は個別指導の塾に入った。
そこでは先生一人に対して生徒一人、または生徒二人で授業を行うスタイルだった。
仕切りで区切られたスペースのなかで、そこそこ真面目に授業をする先生もいれば、授業のほとんどがお喋りで終わってしまう先生もいた。
私はメンヘラを卒業はしたものの、かつての優等生からはすっかりかけ離れて、不真面目な生徒と化していた。
お喋りばかりの先生のときは図書館にいったり寄り道したりして、最後の30分だけ受講する、なんてしょっちゅうだった。
特に叱られることはなかった。ひどいときは塾に到着すると先生が帰ってしまっているときもあったくらいだ。
まあ、授業料さえ払ってくれれば別に塾としてもどうでもいいんだろう。高い受講料を払ってくれていた両親にはただただ申し訳ない。
強いて言い訳するとすれば、セロクエル(抗精神病薬)を飲み始めたばかりで体も慣れておらず毎日とてつもない眠気と戦っていたということを挙げたい。
ほとんど勉強もせず熱意も消えていた私が行きたかった高校は、私にとってはかなりレベルの高い学校だった。
しかし私は焦るでもなく、薬の効果でぼけーっとしたまま、サボりつつだらだら勉強した。
模試で合格圏内の結果が出たことは一度もなかった。
直前の模試でも散々な結果で、でも滑り止めで受けていた少しランク低めの学校にはどうにか合格していたのでまあいっかという軽い気持ちだった。
本当にあの頃の私はすべてを舐めていたと思う。
で、どういう訳か、模試で一度だって合格ラインに達していなかった私はまんまと志望校に合格した。
正直、試験当日のことも合格発表のことも全然覚えていない。
覚えているのは、「○○高校に合格しました」と塾の先生に電話で報告したときに「えっ……」と本気で絶句され「本当に?合格したの?○○高校?」と何度も聞かれたことくらいだ。そのくらい有り得ない成績だった。奇跡ってあるんだね。
本当のことを言うと、メンヘラ化する前の中学一年の頃、私はどうしても行きたい高校があった。
そこは県で一番頭の良い公立高校で、私からすると物凄くきらきらして見えた。
文化祭にも見に行った。
あちこち見て回ったけれど、強く記憶に残っているのは文芸部。
無料で配布していた文芸誌が独特で、インパクトがあって、何度も何度も読み返した。
中でも、もう十年以上経つのに忘れられない話がひとつある。
それはファンタジーで、赤い糸が全人類の脅威として潜む世界の話だった。
赤い糸と言っても、いわゆる運命の赤い糸的なふんわりしたものではなくホラーな存在。
赤い糸は物陰から突然現れて人の体に巻き付き、繭のように体を覆い尽くし、そのままどこか違う世界に引きずり込んでしまうのだ。
どこから現れるかわからない赤い糸に怯えながら、どこか達観した主人公は最後、生まれ育った世界を目に焼き付けながら誰にも気づかれることなく赤い糸に巻き取られて消えていく。
そんな話。
不気味で、不思議で、妙に頭に残る話だった。
家中探してみたものの、あの文芸誌はどこにも見当たらなかった。
作品名も作者の名前もわからないが死ぬまでにいつかまた読みたい作品である。
まあ、要するに、私は心の底ではあの話を書いた人のいる県下トップ校に行きたいという願望を捨てきれなかったという話だ。
ギリギリで合格した高校よりも何ランクも上の学校。
もし私がメンヘラ化せず、真っ直ぐまっとうな中学生として勉強を頑張っていたら、今頃まるで違う人生を送っていたのかもしれない。
◇大学受験
正直なところ、私は大学受験が一番しんどかった。
なんかもう……本当にしんどかった。
原因はいくつかある。
まず、予備校選びを間違えた。
高校生になった私は再び優等生街道に舞い戻り、校内の成績は結構良かった。それで勘違いしてしまったのだ。
自分は頭の良い大学に行かなければならない!自分なら大学受験も乗り越えられるはずだ!と。
部活が忙しかったこともあり、夏休み前にようやくサテライト式の予備校に入った。
サテライト式のなかでも、私が通っていたのは映像で受講するタイプ。
予備校にずらーっと机が並び、それらすべてに小さめのディスプレイとDVDプレイヤーが設置されている。
生徒は各々のペースでDVDを再生し(倍速とか4倍速とかできる)、各々のペースで学習を進めていくという方式だ。
メリットは自分のペースで進められること。
私のように部活やら何やらで出遅れた人間が通学式の予備校の授業に途中参加したところでちんぷんかんぷんになる。
そこで後からスタートし、地道に勉強を積み重ねウサギとカメ的な展開を狙う。
デメリットは私のように自律した生活を送ることが出来ないタイプにはとてつもなく向いていないということ。
私は中学受験のときと全然変わっていなかった。
学校の授業は頑張れるが、遠い先の受験のために全範囲を網羅して勉強することがまるでできない。
周囲の受験生は着々と勉強を進めているように見えて内心めちゃくちゃ焦った。
結局、だらだら予備校で過ごして、周囲に対抗しDVDを見ている振り・勉強している振りをして、模試の結果は散々、焦りは募るばかり、でもだらだら過ごすだけ……というループに陥ってしまったのだった。
もうひとつ、大学受験でしんどかったことがある。
それは母の存在だった。
私が高校三年生になる頃には母の鬱病はすっかり悪化していた。
どんよりとした顔で一日中ぼーーーっとしていた。
薬が効きすぎて寝室に戻ることが出来ず体を支えないと歩けないなんてこともあった。
受験に四苦八苦する私を見ていると何故か彼女までつらくなるのか、しくしくと泣き出して「どうして沖ちゃんはこんなに頑張らなきゃならないの……?」なんて切々と語ることも稀にあった。
さらに私自身が全っ然思うように結果の出ない(サボっていたんだから当然だが)受験勉強に苛々して、そんな状態の母にしょっちゅう八つ当たりしていたのでより一層悪化させてしまった部分がある。
家では母の鬱がどんどん悪化し、予備校ではただただ焦りが募り……と、高校最後の夏休みは散々だった。
長くなったので、続きはまた今度。
次回はセンター試験に大失敗した話と、「なくなれ……なくなれ……」と毎日念じていたら国立大学の入試が本当に中止になってしまった話です。