自殺の予兆、イレギュラーな行動~母の場合~
母が首を吊った後、いろいろ考えた。
自殺は突然のことのように思えたが、よくよく記憶を掘り返してみると「あっこれ完全に死のうと決意してたからじゃん」と気づくことがたくさんあった。
私の予想でしかないが、きっとこういうことがきっかけで自殺決行に至ったのかな、と思う出来事もいくつかあった。
人が死のうとするとき取る行動も自殺のきっかけもそれこそ千差万別だろうが、母の場合且つ私の勝手な予想ということで書いてみようと思う。
(母の死から遡って)
・四年前、鬱病と診断される。「死にたい」と日常的に口にする
・三年前、「図解 ひもとロープの結び方」みたいなタイトルの本を購入
・二年前、マイケル・ジャクソンの死にショックを受ける
・半年前、「もう頑張れない」と父に縋り付く
・一ヶ月前、震災のニュースにショックを受ける
・三週間前、学生時代のアルバムを引っ張り出し延々と思い出を語る
・二週間前、ずっと引きこもっていたのに突然遠方の親戚のもとへ挨拶に出掛ける
・前日、普段笑わないのにやたら笑い、たくさんお喋りをして過ごす
・当日、遺言めいたメールを送る
こんな感じだろうか。
ではひとつずつ詳細に。
◇四年前、鬱病と診断される。「死にたい」と日常的に口にする
簡潔にまとめると私のせいで母は鬱病になった、と断言していいと思う。
ちょっとこれは長くなりそうなのでまた別の記事にて。
◇三年前、「図解 ひもとロープの結び方」みたいなタイトルの本を購入
母はガーデニングが趣味だったのであまり疑問に思っていなかったが、あるときからずっとこの本が置いてあった。本の傍にはロープがあった。
キッチンの可動棚の一番下、常に置いてあるのが、ちょっとした謎だった。
ガーデニング用品をどうしてこんなところに?
当時は、まあ料理の合間に練習でもしてるのかな~と暢気に考えていた。
母が首を吊る際に使ったのはこのロープだった。
決して失敗しないように、三年も前から練習していたのだろうか。
或いは、購入した際は純粋にガーデニング用だったものを、自殺を決意した後に活用したのだろうか。
真相は謎である。
真面目すぎるくらい真面目なところのある母だったから、事前に練習をする姿が容易に想像できるのが切ない。
母の死後、気づいたらあのロープも、本もなくなっていた。
きっと父が察して捨ててしまったのだろう。
◇二年前、マイケル・ジャクソンの死にショックを受ける
母は洋楽が好きだった。
しかし、マイケル・ジャクソンを熱烈に追いかけていたという記憶はない。
普通に好き、というレベルだったと思う。
クイーンとかチープ・トリックとかビリー・ジョエルとかのほうが好きだったような気がする。
そんな母が、マイケルが亡くなったとき異様なほどショックを受けていた。
彼の死に纏わるニュースをテレビにかじりついて観たり、YouTubeで生前のマイケルの映像を延々と再生したり、世間の関心が徐々に移って彼の死を大々的に取り上げなくなってからもずっと、その死を嘆き続けていた。
「とても悲しい」「なぜマイケルが死ななければならなかったのか」と毎日のように語っていた。
この時期から鬱が悪化していった。
より強い薬を、より多くの量処方されるようになった。
日常会話があまりうまくできなくなり始めたのもこのあたりだった。
多くの人々に愛されたマイケルが亡くなり、無気力に暮らす自分が生きている、というのが耐えられなかったのではないかと思う。
私が知らないだけで、もしかしたら彼の歌に深い深い思い入れがあったという可能性もある。
とにかく、母はマイケルの死以降「死」ということを強く意識するようになった。
◇半年前、「もう頑張れない」と父に縋り付く
寒くなり始めた頃、珍しく家族三人で外出したことがあった。
母は外に出るだけで辛いようだったが、父としてはずっと家に引きこもっている母を元気づけようとして、少し値の張るディナーに連れ出してやろうと企画したみたいだった。
私はこの日のことが忘れられない。
未だに「母は父のせいで死んだ」と恨んでしまうのは、この日の記憶が強く残っているからだ。
外食を終え帰宅すると、母は久しぶりの外出でへとへとになっていた。
化粧、お出かけ用の服装、人混み、慣れない店内、折角連れ出したのに具合が悪そうな母の様子に不機嫌になる父、だるそうな態度を取る私。
すべてがストレスだったのだろう。
私は犬に餌をやっていた。
リビングのほうから両親の話し声が聞こえた。
二人の声が張り詰めていて、最初は喧嘩をしているのかと思った。
そっと窺うと、母が父に両手で縋りついていた。泣きながら。
両親は人前でも、私の前でもいちゃいちゃするようなタイプでもなく、まあそもそもいちゃいちゃするほど仲が良くもなかったのかもしれないが、とにかく私はそんなに密着する二人を見たことがなかったので唖然とした。
月9か何かの修羅場みたいだった。
私は存在感を消して耳を澄ませた。
母は泣きながら「もう頑張れない、抱き締めて欲しい」と言っていた。
全身がたがた震えていた。
母は鬱病になってから何度も「こわい」「何をすればいいかわからない」「いなくなりたい」「死にたい」と話すことがあったが、私にも、父にも「助けて欲しい」とSOSを出すことは一度もなかった。
薬で朦朧としながら淡々と料理を作り、食事をする私の横に座っていた。
遅い時間に帰宅する父を待ち、食事をする父の向かいで黙って座り続けていた。
自分は一口、二口食べるだけだった。
どんなにつらいだろうときも、毎朝起きて私と父を起こし、玄関で見送っていた。
その母が初めてSOSを出しているんだ、と思った。
本当に心の底から辛くて、ずっと我慢し続けて、勇気を振り絞って初めて助けを求めている。
私はこのときちょっと感動すらした。
鬱病が悪化するばかりで治る気配のない母が、ようやく自分の意思を表示できるようになったのだ。
もしかしたら母は良くなるかもしれない。
元気な母に戻れるかもしれない、と思った。
泣いている母を、父は存分に抱き締めてあげればいいと思った。
しかし、父はそうしなかったのだ。
彼は戸惑っていた。
どうすればいいかわからないようだった。
なおも縋り付く母を押しのけて、こう言った。
「もっと頑張れるだろ」
「そんなことより早く風呂を入れろ」
母は黙って風呂を入れに行った。
父は影から見ている私に気づいて、気まずそうに二階へ行ってしまった。
初めて出したSOSを、父は無視した。
母の心が折れるどころか粉々になったのが目に見えるようだった。
私は慌てて母の後を追った。
何と言ったらいいのかわからなくて「大丈夫だよ、頑張らなくていいよ」と言ってぼんやり立つ母を抱き締めた。
母の両手は力なく下ろされたままだった。
私がいくら母のSOSに答えたいと思っても、もう手遅れのようだった。
彼女にとって、縋り付くことができる相手は、抱き締めて欲しかった相手は父だけだったのだ。
そのことを突きつけられた気分だった。
私は父を許せないと思った。
◇一ヶ月前、震災のニュースにショックを受ける
そして、東日本大震災が起こった。
連日多くの被害と死傷者についてのニュースが放送され続けた。
母が明確に自殺を決意したのはこのときだったのではと思う。
鬱病になる前から、母はよく「災害のときに死にたい」と口にしていた。
不可抗力での死を希望しているみたいだった。
本当は東日本大震災の日に死んでしまいたかったのだろう。
まだ余震が続くなか無駄に何度も外出していた。
マイケルのときと同じだ。
生きていたかったはずの人々が命を失い、死にたくて仕方がない自分が生きているという現実が、たぶん最後のトリガーになった。
◇三週間前、学生時代のアルバムを引っ張り出し延々と思い出を語る
母は突然学生時代のアルバムをめくり始めた。
それまでずっと無口だった母が饒舌になった時期だった。
やたら元気そうに見えた。
高校のときはこうで、専門学校のときはこうで、と思い出話をたくさんしてくれた。
昔の話をしているとき、母は珍しく楽しそうだった。
折角なら同窓会に行ってみれば?と提案すると途端に顔を曇らせるので、私は余計な口を挟まずはいはいと話を聞くだけに留めた。
今思えば、人生で一番楽しかった頃に思いを馳せて、最後の清算をしていたのだろう。
◇二週間前、ずっと引きこもっていたのに突然遠方の親戚のもとへ挨拶に出掛ける
引きこもっていた母がいきなり父方の祖父母の家に行こうと言い出した。
行くのは良いが、祖父母の家のあたりは震災の影響で断水が続き、家に来られても困るだけだろうと言っても母は頑として譲らなかった。
お菓子とお弁当と水を買っていった。
母はやつれた顔で、でも精一杯礼儀正しい嫁として振る舞っていた。
帰りにケーキを買った。
高校の卒業祝いだと言って、父に内緒で二人で食べた。
私は脳天気に喜んで食べた。
あれが二人で食べた最後のスイーツだったな。
母はそうやって、周りの人々に最後の挨拶をしていたんだと思う。
私が知らないだけで、きっと父や友人やご近所さんにも最後の何かをしていたのかもしれない。
今度聞いてみよう。
◇前日、普段笑わないのにやたら笑い、たくさんお喋りをして過ごす
死の前日、母は陽気だった。
やたら笑った。
たくさんお喋りをした。
いつもよりずっと元気だったので、二人で犬の散歩に出掛けて、普段より長い時間を掛けて遠くまで歩いた。
途中でしりとりをした。
二文字しりとりや、三文字しりとり。
文字数の縛りをかけると結構しりとりって楽しいのだ。
私は母が笑ってくれるのが嬉しくて、散歩を終えてご飯の用意をしている母の横にくっついてずっとしりとりの延長戦をしていた。
最終的に六文字しりとりまでやった気がする。
お母さん、元気になってきたんだなー、と嬉しく思った。
翌日はバイトが控えていたけど、まあがんばるかと思えた。
正直、私には母が死のうとしているなんて全然わからなかった。
今考えると異様に陽気な姿は明らかにおかしかったとわかるのだが、当時は全然気づけなかった。
一番母のそばにいて、一番変化を身近に感じていたはずの私は、母の覚悟に何一つ気づかず死の前日を笑って過ごした。
◇当日、遺言めいたメールを送る
以前の記事にも書いたが、母はバイトに出掛けた私に「沖ちゃん、大好きだよ」とだけメールを送った。
私は返信もせず電話もせず放置した。
その結果、母は首を吊り、そのまま死んでしまった。
他に書き置きや、遺書などは残っていなかった。
以上です。
これはあくまでも、私が記憶している母の行動のみで、更に私の主観が大いに入っているので間違っている部分もあるだろうし、検討違いなことも書いていると思う。
あと結構私に都合のいいようにねじ曲げて記憶していることも、かなりあるんじゃないかと思う。
とりあえず、私から見た分析でした。
読み返すとだいぶ自分を守って書いてしまった気がする。
この記事だけでなく、今までのものも。
ということで、次回は私のせいで母は鬱病になり、私のせいで母は死んだのかもしれないという話をします。