母が首吊り自殺した翌日~火葬を終えるまでの話
前回に引き続き、今回は母の死の翌日以降について。
当日編はこちら。
鬱病の母が首を吊って死んだ日のこと(前編) - ゆるされなかった嘘と夢
鬱病の母が首を吊って死んだ日のこと(後編) - ゆるされなかった嘘と夢
母が首を吊ったのは金曜日だった。
翌日以降、父が葬儀のあれこれについて突然休みを取る必要がなく、親戚一同も集まりやすいということまで考えた上で自殺決行の日を決めたのかと思うと複雑だ。
そんなことを考える余裕あんなら死なないでくれる!?と半ば八つ当たり気味に喚きたくなった記憶がある。
翌日、祖父母(母の両親)以外の親戚が続々と集まってきた。
父方の祖父母と叔父一家、母方の伯父一家。
私は前回の記事に書いたように泣きすぎたせいで顔がぱんぱんになり化け物みたいな顔と声になっていたこともあって、基本黙っていた。
宅急便や何やらが来る度にギャンギャンと鳴く飼い犬は、案の定大勢の来客に我を忘れて吠えまくり、親戚と話している間も葬儀屋との打ち合わせの最中もずっとうるさかった。
悲観的になっていた私には、そのヒステリックな鳴き声が「お母さんはどこ?どこにいったの?なんでいないの?」と言っているように聞こえてしまって、部屋の隅でずっと犬に寄り添って頭を撫で続けた。
かわいそうだったのは父だ。
母の第一発見者で、「配偶者の自殺」という想定もしていなかった事態を突然目の当たりにした上、救急車や警察への対応を終え、さらに何か言いたげな親戚たちに取り囲まれてこれからの通夜やら告別式やら何やらをすべて取り仕切らなければならない。
私は遠くからぼーっと見ていただけだった。
どうしても予定が合わず、父方の宗派のお坊さんが見つからなかったので、結局全然違う宗派のお坊さんにお願いをすることになった。私も父もこだわりがないので別に何でも……という感覚だったが、祖父はちょっぴり不満そうだった。
母は花が好きで元気だった頃はガーデニングが趣味だった。なかでもピンク色の薔薇がだいすきだった。
父はシンプルな白っぽい花祭壇を選ぼうとしたが、私はそのときだけ打ち合わせの真ん中にいって、華やかめなピンクの花祭壇にするべきだと主張した。
私が推したタイプは値が張るものだったので父は若干渋っていたが最終的には受け入れてくれた。
正確な時間が思い出せないが、どこかのタイミングで一瞬母の遺体が帰ってきた。
何かに入れられて返されるのかと思いきや、普通に布団にくるまれていて驚いた。
前日に見た、天井から下ろされたばかりの状態とは違い、首元まで布団に覆われた母の顔は綺麗だった。
鬱病になって以来、母は笑わなくなり、いつも泣き出しそうな悲しそうな顔をしているか、遠くを見て虚ろな表情を浮かべているかのどちらかだった。笑わないせいで顔全体がたるみ、食が細くなったせいで頬は痩け、薬を服用してたっぷり寝ていたはずなのに目元は窪み常に黒い隈があった。要するにとても不健康そうだった。
皮肉なことに、死んだ母はいつもより健康に見えた。表情も穏やかで、ここ数年見たことがないほどだった。
少し離れたところから見ると、ただ布団のなかですやすや眠っているだけのようだった。
大きなドライアイスのかたまりを指し示されて、これで冷やしているので取らないでくださいと言われた。
そして、体に触ってもいい、とも言われた。
私は恐る恐る手を伸ばした。
死体を触るなんて初めてのことだ。そもそも死体を生で見たことも数えるほどしかない。
母の頬に触った。
よく冷やされた遺体は、冷たくて、かさかさしていて、とても硬かった。どちらかというと人形みたいだった。
薄毛に悩んでいた母の髪は一本一本が細くて変な感触だった。
もう一度顔を撫でてみた。
首にはまだあの紐の痕が残っているんだろうかと考えたけれど、わざわざもう一度見る気にはなれなかった。
死んだ人間は冷たくて、硬くて、動かないんだなと思った。
母方の祖母は気丈な人で、それまで暗く澱みがちな面々に気を遣ってあれこれ中身のない世間話をしてくれていた。母の死という現実が重くのしかかるなか、どうでもいいことを喋ったり聞いたりしていると少しは気が紛れた。祖母自身もそうだったのだろう。
しかし、母の遺体を見た途端、彼女は泣き崩れた。
それまで陽気におしゃべりをしていたのが嘘みたいだった。
何度も名前を呼んで、どうして、どうしてと繰り返していた。
親戚一同がそれぞれに対面を済ませたあと、親しくしていたご近所さんを呼んだ。
前日に救急車や消防車やパトカーや白バイが駆け付けていたので概ね検討はついていただろう。
父は首吊りによる自死とは伝えず、心臓が悪くて急に倒れてしまったのだと説明した。
母とよく話したりメールのやりとりもしていたご近所さんは納得していないようだったが、深く追及しようとはしなかった。そりゃそうだろうが。
つい先日まで普通に家の前の掃除などで姿を見せていた母の突然の死に、皆驚いていた。
HPが削られすぎていた私は特に会話もせずその様を見ていた。
ご近所さんはいい人ばかりで、母の死後しばらくおかずをタッパーにいれて届けてくれたり、私宛に手紙をくれたりした。
そんな優しさを、いつもなら「はいはいイイ人アピール乙素晴らしきボランティア精神ですね拍手拍手」と斜めに受け止めてしまう私だが、そのときは本当に身に染みてありがたいと思った。
ささいな優しさに飢えていたのだ。砂漠で迷子になって灼熱のなか何日もあるいて喉がからからになっているような感じだった、イメージ的に。優しさという水を一滴でも与えられるとそれだけで有り難かったのだ。自分がそこまで脆い人間なんだと思い知らされた気分だった。
告別式の日取りも決まり、葬儀屋に母の遺体が引き取られた後、母方の祖父母を除く親戚一同は一度帰宅した。
正直、その後通夜までの数日間の記憶がない。
カレンダーを見返すと、母の死んだ金曜日から、通夜を行った火曜日まで空白の日にちがあるのだが、綺麗さっぱり覚えていない。
何を食べて、何を思い、どう過ごしていたのだろう。
きっと、父や祖父母も覚えてないと思う。
もっと言うと、通夜の記憶もない。
棺に入った遺体と対面したとき、頭のところだけ扉があり開けると窓から顔が見えるようになっていて、なるほど上手いこと出来てるなあと思ったことは覚えているので、恐らく通夜はしたはずなのだが……いつか思い出したら書こうと思う。
当然というか何というか、当日は近しい身内のみの家族葬だった。
選んだ花祭壇はピンクの花がびっちりと並んでいてすごく豪華だった。
内心、やっぱピンクにして正解だったなと思った。
告別式の詳細はあまり覚えていないが、お坊さんのお話は印象的だった。
自死と事前に伝えてあったのか、そういうことも含めたお話で、今は母を想って存分に泣いてもいいんだよ、死んだからといってゼロになった訳ではないんだよ、というような内容だった気がする。
後の法事でそれぞれ別のお坊さんのお話を聞く機会があったが、あのときの方のお話が一番心に響いた。始まる前は「こんなことしたって死んだもんは死んでるんだから意味ねえよ……」と投げやりだった私も幾分心が和らいだ。死んだ人を想う時間というのも、必要なのかもしれない。
死に化粧を施され、ほんのり色づいた母の顔は安らかだった。
お気に入りだったピンクのスーツを一緒にいれた。
出棺の前、棺のなかにひとりひとり花をいれた。
母の好きなピンクの花が溢れんばかり用意されていた。
大好きな花に覆われた母は綺麗だった。
何故かスター・ウォーズEP3でのパドメ・アミダラの葬儀のシーンを思い出した。
それまでシクシク……と静かな泣き声が漏れるだけだったが、花を入れる段階になると親戚一同皆泣いていた。
これが最後のお別れです……だとか何とか煽られたせいもある。
私はこのときハンカチを忘れるという失態を犯し、叔父さんの高そうなハンカチを借りる羽目になった。
涙と鼻水でぐっちゃぐちゃになったハンカチを、後日洗濯して返却しようとしたが丁重にお断りされた。今も我が家の箪笥の奥にあのハンカチが残っている。
そして、バスで火葬場へ移動した。
よく晴れた日だった。
ちょうど新緑が芽吹き始めた頃だったので、バスから見える山々と青い空のコントラストが眩しいくらいだった。
火葬を待つ間、一時間半ほど控室で過ごした。
ソファーとテーブルがあって、テーブルには山盛りのお菓子が乗った大きな皿がいくつか用意されていた。
私は昔からストレスが溜まると過食気味になる。
このときはもうピークだった。
特に泣く訳でも喋る訳でもなく、ひたすらぼりぼりお菓子を食べ続けた。
火葬が完了する頃には、ほとんど一人で二皿分のお菓子を平らげてしまった。
周りの親戚たちは私の暴食を咎めるでもなく止めるでもなく、可哀想なものを見るような目を向けるだけだった。
火葬が終わり、母は骨になっていた。
ピンクの服やピンクの花を大量に入れていたせいか、骨全体がほんのり薄桃色になっていた。
ガリガリで運動不足で鬱病を患っていて、とてもじゃないが健康的とは言い難く骨も丈夫には見えない母だったが、案外頑丈だったらしい。
形が残らないこともあるという喉仏が綺麗にそのまま残っていた。
火葬場の人も「こんなに綺麗な喉仏はほとんど見たことがない」と言っていた。リップサービスの可能性も否めないが。
最後に父と私でうっすらピンク色に染まった喉仏を拾った。
その後たしかまた読経してもらった気がする。
ただの骨になった母を見て気が抜けてしまい、私はぼーっとしていた。
最後に食事をとった。
精進落としと言うらしい。
このときも過食モード続行中だった私はその料理も食べ尽くした。
お米一粒残さなかった。
父は「全部食べるんじゃない」と完食後に怒っていた。そういうもん?
そんな感じで、告別式が終わった。
骨壺と、お供えものとして使ったフルーツ盛りと花と、あとは線香なども貰った気がする。
部屋はがらんとしていた。
親戚は皆帰ってしまい、家には父と私と犬、そしてピンクの骨になった母だけが残った。
慣れないことばかりが続き、ようやく一段落して、私は呆然とした。
母のいない生活が想像できなかった。
一週間後には大学の初登校日が控えていた。
ご飯は?掃除は?洗濯は?犬の世話は?これから全部私がやるの?と、父に聞いた。
父もまだぼんやりしていて、後で考えようと言った。
母はもういない。
突然腑に落ちた。
今後母がソファーの端に座って床を見つめることもないし、薬の副作用で歩けなくなることもないし、つらいこわい死にたいと嘆くこともない。
ただ、部屋の隅の骨壺のなかにひっそりと納められているだけだ。
私は恐ろしいことに気がついた。
それってもしかして母にとってはこの上なく幸せなことなんじゃないか?
母は自殺した。
私や父と生き続けることよりも、自ら命を絶つことを選んだ。
非情かもしれない。非道徳的かもしれない。
だけど私には、それが間違ったことだとは思えなかったのだ。
自由もなく、楽しみもなく、希望もなく、鬱病に苦しみ続けた母がようやく楽になれたのだ。
辛く、悲しい思いをしているのは遺された私たちだけで、母にとっては、自死という選択が最良のものだったと、私にはそう思えてならなかった。
フルーツ盛りも花も喪服も片付ける気になれず、テレビをつける気にもなれず、私は窓を開けて線香を立てた。
あの日の夕方を、何故か時々思い出す。
春のあたたかな風が吹き込む部屋で、私も、父も、疲れ切って、無言でぼんやり過ごした時間。
ようやく来客が去って落ち着いた犬はソファーの母の定位置で呑気に寝息を立てていた。
母はやっと幸せになれたんだと、麻痺した頭の中で私は呪文みたいに何度も繰り返した。
これにて、火葬までの話はおしまい。
念のため、私は自殺が正しい選択だと主張したい訳ではないです。
遺された側として、そう思わないとやってらんねーよ!というほうが強い。
でも、母の死から七年以上経った今も、私にはそれが悪いことだったのか、間違いだったのかわかりません。
そんな感じです。